変わらない大切なもの

信義に固執しない

信義はときにリスクを生じさせる

一般的に、信義に厚いことは美徳とされています。自分との約束を簡単に破ったり裏切ったりする人に、よい感情を抱く人はいないものです。しかし、時と場合によってはやむを得ず信義に反する行動を選ばなければならないこともあります。

そして、リーダーとして多くの人を率いる立場の人ほど、そうした決断を迫られる場面に遭遇することは多いのです。たとえば、あなたの会社と付き合いがある会社が大きな失態を犯し、倒産の危機を迎えました。

そこの社長Aさんとあなたは学生時代からの友人で、これまで協力してきた仲です。あなたはAさんを助けてあげたいと思うかもしれません。もしかしたら、Aさんのほうから助けを求めてくる可能性もあります。

この場合、あなたはどう動くべきなのでしょうか。その場合、相手に手を差し伸べるかどうかは、あなたの会社がもっている余力の程度と、相手が犯した失態の性質とを見極めて決めるべきです。

あなたの会社に余力がなければ、助けようとしたところで共倒れになる可能性が非常に高くなりますから、助けたくても助けられません。また、たとえ余力があったとしても、相手が犯した失態が犯罪すれすれのようなものだった場合、助けたことで世の中から同類とみなされ、今後の業績に大きな悪影響を及ぼす可能性もあるのです。

これまで支え合ってきた関係を考えれば、相手を見捨てることは信義に反するといえます。しかし、あなたには自身の会社で働く社員の生活がかかっています。ここで、個人の情に流されて無理をするようでは、将来はおぼつかないのです。

状況によって信義に反することも必要

マキャベリは『われわれの経験では、信義を守ることなど気にしなかった君主のほうが、偉大な事業を成し遂げていることを教えてくれる』と述べています。同時に、人々を欺いてばかりいながら、誠実であるかのように見せかけて成功した王を例に挙げ、「内心はどうあれ、結果が出せればよい」とも主張しています。

ただし、この言葉には「君主にとって、術策など弄せず公明正大に生きることがどれほど賞賛に値するかは、誰もがわかっていることである」と前置きがあり、「信義が大切なことが前提」になっています。

「場合によっては信義に反する選択をすることも必要だ」と主張しているだけで、信義などどうでもよいと言っているわけではありません。ここを間違えると、単に信用できない人になってしまうので注意が必要です。

先述した例の場合、相手の会社が倒産したのちに、再就職先が見つからずに困っている人たちだけすくいあげるのもひとつの手段です。その友人は不平を漏らすかもしれませんが、無理に助けようとして自分の社員たちを危険にさらすよりは、はるかにましな選択でしょう。その時が訪れてなお、信義に固執し続ける人は、結果的により多くの人々を不幸にしてしまうかもしれません。

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