魂の成長のために生まれてくる

やり残したこと(自分の因果の成就)のために
人(自分の魂)は何度も何度も生まれてくる

やり残したこと(因果の成就)を成すためには、魂を成長させる他ない。人生は全て向上の過程。過去世を話し出す小児達が生まれ、遡った調査で実在した人物が判明してきたことで、普遍化してきた輪廻。

輪廻転生を繰り返している私たちには、無数の過去世がありますが、新たに生まれてくる時、過去世の記憶はない。過去世の影響が、先天的な才能や身体的特徴、家庭環境などに現れることはある。

あの世に還ると、ある程度は戻るとされていますが、「記憶」としては、一旦、消されてしまう。一見不幸なことにも思えるルール、しかし、実は非常に公平な宇宙の摂理。

「過去世は過去世。今世は今世」であり、過去世で偉大な業績を遺した人も、不幸な人生を送った人も、心(魂)の実力を存分に発揮し、新たな知識と経験を得るために再びスタートラインに立つ。

しかし、自然の法則で、行ったこと(蒔いた種)は、善いことも悪いことも必ず刈り取らされるという目に見えない宇宙の摂理があるため、その人自身の過去世の影響により、今世現れるものも人それぞれである。

やったことは絶対に許してはくれない目に見えない法則であり、愛と光に相反する愚かな行為などは、耐えられるものは今世に、耐えられないものは来世以降に必ず刈り取らされる。

善き収穫を望んでいるのであれば、善き種を蒔き育んでいくことは明らかであり、死んだら終わりだと悪行を行う者は、自然の法則によって後世に重いカルマを残し、自身に降りかかってくるだけのことであり、宇宙の摂理も知らない無知も甚だしい。

「人は何しに生まれてくるのですか」という問いに答えられるかどうかはとても重要です。「考えたこともありません」という場合であれば、死んだ後の業苦を思いわずらわないように、人間はいかに生きていくべきかを学んでおいたほうが賢明です。

人間は自分の運命をあの世にいるときに決めてきて、自分はこういう人生を歩んで生きてきますと誓い、ほんとにつらい修行を背負っている人もいますが、それでも私は幸せになりますと約束のもとに出てくる。

死んだら楽だと、決められた寿命を自ら縮め命を絶っても楽にはならない。人間というのは、トータルすると必ず元が取れるようになっている。苦労した人は、死にたくなってしまうことがあるかも知れませんが、死なないでください。あなたが苦労した分、必ず人は幸せになれるようにできているのです。

あなたに辛い事が多いのは、あなたの魂のレベルが高いからなのです。自分が人より不幸だと思えたとすると、それは不幸なのではなく、自分は他の人よりも高いレベルの魂を持った強い人間なんだと認識すべきであり、自分はつまらない人間ではなくて、人のお役に立つ凄い人間で、凄い魂ということがわかる。

魂の向上を常に意識しながら生き、「知ること」と「経験すること」を積み重ねていけば、自分が何者かがわかる時が来る。真我に辿り着くことで、魂的に何をしなければならないかがわかり、結果的に気楽に生きられる。その頃には、経験に裏打ちされた相当な実力がついているので、諦めないでください。

魂のステージも上がれば、相応の因果も消えていき、変わらない目に見えない大切なもの「信用・信頼・恩義・実力(スキル)など」がより顕在化しますが、同時に、大事なことを忘れない記憶する脳の記憶領域(記憶力)も優れる。

豊富な知識を持った人の前で口を開くということは、正確な知識が備わっているか、それとも欠落しているかを披露することであり、真に賢明な人は、その慎み深さと沈黙で目立つものです。

目に見えないものを大切にした結果、目に見えるもの(人、モノ、お金、実績など)が得られるようになる。この順序を逆にすると、とんでもないことになり、信用の星で信用を失う行為は致命的なものであり、虚像がもたらす結末は言うまでもないものである。

ご先祖の因果や親の因果は、子供には関係がない。ご先祖の因果はご先祖、親の因果は親、子の因果は子、すべては自分自身によるもの。子に出るものは、その子が過去世に行ったことである。

魂を成長させることは、実は本当はすごく楽しいことであり、そのために、この星に何度も何度も生まれたいと願う。魂力の向上に伴うオーラ(霊的な存在が発する光)、まとっているオーラを大きくさせることが楽しいのである。

この世が偶然の産物ではなく、仮想現実である可能性が高く、偶然の過程ではないことがかなりの確率で示唆され、同時に創造主の存在と、この世の世界はプログラミングがされている可能性が高い。天の中心に何と呼んでいいのかわからない凄いエネルギー体がある。

この世界が仮想現実である根拠が実験結果によって示されてきており、量子、光子が意識に反応するプログラムがされていたとすると、この世は意識で変えることができることを示すものであり、「引き寄せの法則」という目に見えない自然の法則に通じるものである。

創造主は愛・光・忍耐で成り立つとされ、神様とはどのような存在と鏡を覗くと、自分の姿が映し出される。大霊に帰ることが忘れられていますが、私たちは分霊(わけみたま)を与えられており、九死に一生や果てしなく困った時、どうしても助けてほしい時などに、自然と願っている心(魂)が存在の証である。

天は自ら助くる者を助けるという言葉があるように、自分を救えるのは自分しかいないのであり、この世で自分に起こるすべての事象は、すべて自分が引き寄せたものである。今の自分は過去の思考(考え方)による選択の積み重ねの結果であり、未来は今の思考(考え方)からの選択の結果である。

この星(地球)は行動の星であり、また、努力は消えないという自然の摂理があるため、努力したものは自分の魂の来世に受け継がれる。生まれつきの才能や天才といった言葉で表現されますが、今世の努力と合わさって偉業は成し遂げられる。

行動し続ける努力、学び続ける努力が、いかに宇宙の摂理に従い、自分を適応させていく自然の行いであることかがわかる。人は困らないと学ばない性質があるので、困ってから学んでも遅くはない。

厳密には困っているのではなく、学ばないとどうなるかを学んでいるのであり、困ったことは起こらないという解釈が適切。学ばないとどうなるかに気づいた上で、自由意思によって学ばない者は、自然の法則からかけ離れ、動物霊が住み着く。

問題が起きた時は、必ず愛と光を絡ませて解決の糸口を探すことが賢明であり、自分が一番見たくない所、目を背けてしまう所に答えがあることが多い。乗り越えなければいくらでも試験は出される。忍耐強く答えを出すことで、もうその問題は答えを知っているので降りかかってはこない。

考えるということは知識の賜物であり、愛と光の領域に忍耐強く心を置いていくとひらめきが来る。そして、その領域で閃いたものに考えは必要ないので入れてはいけない。

現実世界では人それぞれ色々なことが降りかかってきますが、自分が乗り越えられない試練は持ってきていないと言う事を認識すべきであり、そもそも、この世には修行に来ているのであり、楽を求めに来ているのではない。

楽を求めるのであれば、正統なる努力のもと、成功曲線の低空を必ず乗り越えなければならない。楽苦ではなく「苦楽」、順番を間違えないようにすることであり、創造主はいつの時代も正統なる努力を求め、愛と光と忍耐を求める。

楽すると楽しいの「楽」は同じ漢字ですが、楽な方へ行くと苦労が待っている。また、言霊の日本で人生を勉強する上では、漢字は非常に巧妙に作られており、学ぶべき本質がたくさん隠されている。

地獄行きの場合は楽ではないでしょうが、楽や空想や考えない行動しないなどは、向こうの世界で行うもので、あの世で決めた自分の人生を、現実世界で現実化(自己実現)をしに来ているのであり、自分の道しか歩めないので、いくら人の道を羨んでも歩けない。人に合わせて他者の人生を歩んでいる場合ではないのです。

絶対にやってはいけないことは「平凡」を望むことであり、「普通でいい」という考え方もつらい事柄をもたらします。この世の中に平凡などはなく、誰でも波乱万丈であり、もし平凡でいいのなら生まれてくる必要などないのです。

波乱万丈を恐れると創造主が与える勉強をしたくないと言っているのと同じであり、私達は平凡にはいかない、波乱万丈なのです。恐れとは嘘であり、植え付けられたまやかしであり、恐いものなんて何もないのである。

自然のものに悪いものなどはなく、悪影響を及ぼすものは人間が手を加えたものである。そしてこの世は「愛」だけしかない、それしかない。まともになるとは、愛が大きくなることであり、上手くいかないのは、考え方や行動が原因であり、人の思考(考え方)が人生を創るのである。

人生は一度ではない 死んだら終わりではない
私達が死なないと言う事が 科学的にも証明されてきている

この名前で、この両親で、この兄弟で、この親戚での人生は一度。死んだら灰になって終わりだと思っている場合は、死んだら呆気にとられる。肉体は滅んでも、死なない分霊が私達の中にいるということが、ここ何世紀かで普遍化する。死ぬと、針の先ぐらいの分霊(21g)が抜けることも示されてきている。あの世に還ると、天国も地獄もあるとされ、また学び続ける。お呼びがかかれば、自分のお役目(定め)を誓い、送り出される。その際、自分の魂が成長しやすい両親をあの世から見定め、自分が乗り越えられるだけの試練を背負って、母親を選んで魂が入り込んでいく。「競争していた」という記憶に長けた小児達(3歳頃まで)の中間性記憶で証明されてきていますが、受胎した段階で宿っているのか、また脳が形成される段階で宿っているのかは定かではない。

小児達の中間性記憶では、「頼んだ」と言われて送り出されたという記憶があり、誰に言われたのかという問いには、「大いなる存在」と答え、言ってはならないと約束のもとで送り出されるという記憶が語られている。

光の存在だった私たちは、肉体を持つことによって五感を通して得られる喜びや幸せと引き替えに、苦労や悲しみという負の部分も感じてしまう。負の部分は「光である魂」に曇りを生じさせ、本当は光だった私たちの存在が、次第に暗くなっていくこともある。

苦労や悲しみがなければ人間は悟ることはないことは前述の通りであり、様々な経験を乗り越えたときに、再び肉体を持ちながらも、光り輝く存在に昇華していく。そこに近づけていくための実践が「人生」そのものと言える。

あなたの心臓、誰が動かしているのか、そう、だから生かされている。ここに気が付かなければならない。人間はつくられたもの、だから創り主に従えばいい。誰かに認めてもらいたいと頑張るのはやめることであり、創造主が認めているからあなたをこの星(地球)に出したのです。

生命というエネルギーは創り主がくれるもので、命はそこからしかこない。生きているものは全てできない。世界中の学者が集まっても、成分を分析して作っても、葉っぱ一枚の命も作れない。

親は子どもを成長させるものとの認識とは反対に、親の成長を願い祈って言いに来たという、中間生記憶を持つ子どもの記憶が語られている。まったく違った人格が生まれてくる、その子が生まれてくる必要があったから。それが私たちの輪廻であり、兄弟も偶然ではなく異なる人格が生まれてくる。

生まれたと同時にストップウォッチが押され、寿命までのカウントダウンが始まる。百年の時は一瞬であり、人生はあまりにも短すぎる。いたずらに時を過ごすほど無駄なことはない。世俗の意見、誰かが植え付けた当たり前、刷り込まれた常識に惑わされている場合ではないのです。

人と異なることが恐い、失敗するのが恐い、ただ生まれてきたからただ生きてるだけ、だから好きなもの食べて飲んで死んだら終わり、偶然、全部偶然。これまで述べてきたことで、この世は偶然ではなく、必然であることは周知のとおりです。

人生に目的がないこと、自分の色を出さないこと、チャレンジしないことが人生の失敗である。あなたはどう生きますか、自分の人生を、自分の命を、何のために使いますか。人が生きている限り、奪うことができないものが「志」と「知識」である。

人生は必ず目的があるのです。それを追求するのも人生の旅であり、ある時それがわかったとき、はっきりしたとき、人生は力強いものとなり無駄がなくなる。時間も体力も目的のために使うことでしょう。

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